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このごろのシバタ
[back number 2]




給水塔 2004.11.17(水)

 いつも仕事にいくとき乗る電車を途中下車して、大河原良子さんの個展を見に行った。

 駅を出て、会場となっているカフェの住所をたよりにおおよその見当で歩き出す。ここは駅前一帯が大きな団地だ。植え込みのオシロイバナが立派な種をつけている。ちょうど日が暮れかかり、西の空に刷毛で描いたような雲が、白、灰色、うすいオレンジ色に重なっている。

 その下に、夕日に照らされた給水塔が逆光の中にすっくと立っている。

 いつも電車から見ていて気になっていた給水塔だ。

 この塔は、高架の線路を走る電車からかなり長い間見えるように思えるのだが、いざ車窓から写真を撮ろうとすると、ファインダーにきちんと収まるのはほんの一瞬で、しかもかなり望遠じゃないと豆粒ほどにしか写らない。この沿線に住んでもう15年ほどになるが、まだ一度もちゃんと写真を撮ったことがなかった。そのうちいつかこの駅で降りて、あの給水塔の近くまで行ってみようと、塔を見るたびに思うのだが、それだけのためにわざわざ出かけるということもなかった。

 その給水塔がいきなり視界に飛び込んできたので、なんだか塔に呼ばれてでもいるかのように思わずそちらに向かってずんずん歩いていった。

 給水塔は公園の敷地内に当たり前のように立っていた。思っていたより小さかった。近くに行ったら大きく撮れるかと思ったが、逆に公園の植木に埋もれてしまう。昔、小田原城址公園の遊園地にあった小さな観覧車を思い出した。結局、公園に入って塔の全体が収まるように1枚、公園の横の道路から1枚撮った。

 大河原さんの作品展が開催されているカフェは、この公園のすぐ脇にあった。

 壁にはきちんと額装されたドローイングが掛けられ、陳列台には燭台やカード立てなどの金属作品が並んでいた。ドローイングは薄墨で描かれ、何かの細胞の顕微鏡写真のような、有機的な生命を感じさせるものだった。金属作品もやはり曲線を生かした、蛇や昆布を思わせるような形が取り入れられているが、装飾的ではなく、むしろシンプルで凛とした印象だ。ごっつい燭台は、洋室よりも和室の床の間などに置いたら似合いそうだと思った。残念ながら、うちのアパートにはこういう風流な物を置く場所がない。

 このカフェの一押しメニューらしい石臼挽きコーヒーというのをいただきながら静かなひとときを過ごし、外に出るとすっかりあたりは暗くなっていた。



朝の夢 2004.9.23(木)秋分の日

 丸の内線の東京駅を探して線路沿いを歩いていると、線路脇の駐車場みたいなちょっと開けたところにヨーロッパ風の商品が並んだ雑貨屋と食料品店が建っている。店の前に並べてあるのはヨーロッパのメーカーの洗剤。食料品店の看板にはスラブ系の単語が書いてある。この辺りのスラブ系住民のための店らしい。

 どんなものを売っているのか、好奇心から食料品店に入ってみる。店内はがらんとしていて商品も少なめ。ここのコミュニティーに足りる分だけを輸入して細々と売っているのだろう。

 アイスクリームでも買おうかと、冷蔵ケースの中に並ぶ、アルミホイルに包まれたカラーのラベルが貼ってある四角いものをよく見れば、アイスではなくいろんなフレーバーのチーズなのだった。

 店にひとりぽつんといる地味なおばあさんに「ドブリージェーン(ロシア語で「こんにちは」)」と言って、「マロージェノエ?(アイスクリームは?)」と訊いてみる。

 おばあさんの顔が「わかった!」というふうにパッと明るくなる。

 おばあさんは別の冷蔵ケースのところに行き、そこから冷凍の(?)果物を大事そうに取り出す。鮮やかな緑色をした表面にイボイボがあるもの、黄色いパパイヤのようなもの、オレンジ色のものなど、私が見たことのないような色とりどりのトロピカル・フルーツ。生ではなく、ただ凍っているというのでもなかったが、それが何なのかはわからない。おばあさんはそれをすべてレジに持っていく。私には何も訊かぬまま、いつのまにかそこにいた垢抜けない民族衣装風の服を着た15才くらいの娘がレジを打ち、レシートを示しながら合計160ルーブリですとロシア語で言う。私はその値段がどのくらいなのか見当が付かないので、それは円だといくらになるのか、ルーブリは持っていない、とロシア語で言う。そのとき私の左ポケットには円が、右ポケットにはズウォティ(ポーランドの通貨)が入っていたが、ズウォティのことは話がややこしくなるから言わないでおく。その間に、私の後ろにロシア人の主婦など、客が2、3人並んで順番を待っている。レジは一つしかない。

 レジの女の子は困って、ルーブリしか駄目なのだ、ここの住所はただの「アレフ(ヘブライ語アルファベットの第1字)」なのだから、と紙切れにボールペンで字を書きながら私に説明する。どうやら不法移民らしい。合法的な住所がないのだ。

 今度ここに来るとき、この店を見つけられるだろうか? と思いながら、私は何も買わずにその店を出る。



公衆電話の悪夢 2004.9.2(木)

 私は公衆電話を前にして、メモ帳に書かれた番号を見ながら、プッシュホンのボタンを押している。

 受話器を左の肩と頬っぺたの間に挟んでそうしていると、右肩のショルダーバッグがずれ落ちそうなのが気になる。間違えて隣のボタンを押してしまう。

 やり直し。がちゃん。ピピポポパポ…。

 はっと気付けばいつのまにか、掛けるべき番号の隣に書いてあった別の人の番号を押している。しまった。

 またやり直し。がちゃん。ピピポポパッ…。あ、また間違えた。

 がちゃん。今度は慎重に、ゆっくり確実に、大丈夫。

 「ピパプー。ニエマ・タキエゴ・ヌメル[(ポーランド語で)そんな番号はありません]」

 おかしいなあ。もう一度。

 ボタンを押そうとするが、メモ帳の番号がぼやけてよく見えない。それにしても何度も掛けているのだから番号を暗記してもよさそうなものなのに、頭の中は見事にからっぽだ。指もだんだん動かなくなり、意識が朦朧としてくる。

 どうしても今日中に連絡を取らなければならないのに。なんとかしなくちゃ、なんとか…

 …という夢をときどき見てうなされる。目覚めると極度に疲労困憊している。

 実生活ではとくに電話嫌いというほどでもなく、普通に使ってはいるのだが(ただし携帯電話は持っていない)、電話で困った経験は数多ある。

 まず私は壊れた公衆電話に当たる確率が高い。

 昔のダイヤル式公衆電話では、正しい番号を回しているのに全然違うところへ掛かってしまうことがよくあった(池袋駅の電話)。これはダイヤルをずらして取り付けるといういたずらのせいだったらしい。

 お金を投入してもつながらず、受話器を置いてもお金が戻ってこない、単なる貯金箱と化している電話にもあちこちで出くわした。

 小銭の持ち合わせがなくて困ることもある。普通のテレフォンカードは持っているのにカード式の電話が見つからなかったり、ICカード式の電話しかなかったりということもある(最近は両方のカードを持つようにしている)。

 10年ほど前のポーランドでは公衆電話自体が少なかったうえ、まともに機能している割合がごく少なかったため、ちゃんとつながる電話にはいつも行列ができていた。何分間も待った末にようやく掛けてみると、相手は留守で、私の知らない家族のだれかが電話口に出てくる。つたないポーランド語では用件をうまくつたえられないうえ、後ろで待っている人がいらだつ気配を感じるので、ますますあがってしまい、自分でも何を言っているのかわからなくなる。そうこうしているうちに手持ちの小銭が切れてしまう。

 数年前、ハンガリーのブダペストでもそういうことがあった。手持ちの小銭をかき集めて公衆電話に投入してみるが、いっこうにきちんと相手につながらない。そうこうするうちに小銭はすべて電話機に飲み込まれてしまう。仕方がないので郵便局に行き、そんなにたくさんの度数は必要ではないと知りつつテレフォンカードを購入する。しかし付近を探してみても、そのカードが使える電話がないのだ。

 ここ数年でポーランドにはだいぶ公衆電話が増えたし、携帯電話が普及したためか公衆電話に並ぶ人の数は減った。日本よりはまだ壊れている、もしくは壊されている電話の率は高いが、以前ほど困ることはなくなった。

 ドイツでは街なかにクレジットカードで掛けられる電話があるのでありがたかった。数日間の旅行では両替は最小限にとどめたいし、テレフォンカードを買ったり小銭を持ち歩くように気をつけたりするのは面倒くさい。

 公衆電話に関しては便利なドイツだったが、それでも困ったことがあった。

 その日ベルリンで会うことになっていた知人が、掛けても掛けても留守なのだ。おかしいなあ。ポーランドに初めて行ったときと同じだ。こういうときは、いずれどうにかなるとあきらめて、いまの状況を楽しむしかない。街を散策しながら4回目か5回目に掛けたとき、ようやくだれかが受話器を取った。ドイツ人である。英語で用件を告げると、英語で「間違い電話ですよ」と言われる。おかしいなあ。メモした番号にちゃんと掛けたのに。

 結局その後どうにかその知人には会えたのだが、メモした番号のうち二つの数字が入れ違いになっていたことが判明した。さて、その人が言いまちがえたのか、私が聞きまちがえたのか、書きまちがえたのか。



記憶、イメージ、言葉 2004.8.3(火)

 他人に向かって自分が言ったり書いたりしたことを、すっかり忘れていることがよくある…らしい。言った内容はおろか、言ったという事実まで忘れており、それを言われた当人から指摘されるのだから、まったくもって面目ないのである。

 例えば、人の写真展を見に行って、作家が自分より若い人だったりすると、その場の雰囲気でつい生意気な意見を述べたりしているようなのだが、本人は言ったそばから何を言ったか忘れてしまっており、そんな意見で若い作家の前途が左右されることもあり得るかと思うと大変申し訳ない。

 つい先日もある若い写真家の個展会場で、その写真家が言うには、私は以前にも彼の個展を見にきたことがあり、彼の作品についていろいろ意見を述べたのだそうだ。私には、そんなこともあったかしらねえ、という程度の記憶しかない。彼はそのときの私の言葉を真摯に受け止め、次の個展の内容にいくぶんなりとも反映させたらしい。申し訳ないけど私は彼の以前の個展の内容をさっぱり思い出せない。いやはや。それでも彼の今回の展示はかなりよくできていて記憶に残ったので、まあいいか。

 こんなふうなので、私は人に何かを教える仕事なんて、とてもじゃないができない。

 それにしても自分が言ったことを忘れるとはどういうことか。口にしたからには一旦はそう考えたに違いなく、それに嘘はないと思うのだが。

 おそらく私は、頭の中の印象やイメージを言葉に変換する作業をしながらまとめていて、言葉ではなかったものを言葉にして発することで安心するのだ。頭の中の印象やイメージは集中していなければ消えてしまうし、一度消えてしまえば、もうこの世のどこにも存在しない。それをなんとか捉え、言葉という記号で固定しようとする。印象やイメージを記号にしてしまえば自由に持ち運びができ、人から人へ伝えることもできる。

 発語によって印象を人に伝えるということは、ワープロで打った文章をディスクに保存するのに似ている。万一オリジナルを消したとしてもバックアップがあるから大丈夫と思って、言葉が発せられるのと同時に、私の頭の中にあったオリジナルの印象は雲散霧消しているのではあるまいか。

 そのかわり、言葉にせずにずっと記憶の奥に秘めていたイメージは、何年たっても鮮明さを失わない。こうしたイメージの記憶は私にとって宝物だ。

 写真というメディアのすばらしいところは、そうした一瞬の印象をふわふわひらひらしたまま定着してくれるところである。言葉にすると消えてしまうような、周辺部の焦点のぼやけたどうでもいいような細部まで、ちゃんとすくい取ってくれる。けれどもそれを読みとるには熟練が必要で、それはまた別の話だ。



私たちの場所 2004.6.22(火)

 先日、森美術館で開催中のイリヤ&エミリア・カバコフ展「私たちの場所はどこ?」を見にいった。

 会場に入ると、壁面に整然と白黒写真が並んでいる。各々の写真の脇には英語のテキストが添えてあり、日本語訳がフレーム外の壁面にキャプションのように表示してある。テキストはどうやら19世紀ロマン主義の詩のようだ。写真の方はソ連時代の報道写真や、演劇やバレエの舞台写真、映画のスチールらしきものなどで、ついこのまえの20世紀のものだが、だいぶ時代がかって見える。

 天井近くには装飾的な額縁に入った巨大な油絵の下の部分だけが並んでいる。その油絵を見ているらしい巨大な観客の巨大な足だけが見えており、彼らの体や頭は天井より上に突き抜けて存在することが暗示されている。

 壁際の床は一部透明で、その下に海岸や草地や家並のジオラマが見える。上空から地上を見下ろすような感じだ。

 つまりこの展示は「大中小=上中下」の3層構造になっていて、それぞれが19世紀、20世紀、未来(?)世紀に対応しているらしい。

 ちょうどここに来る途中、地下鉄の中で「ガリヴァ旅行記」の要約を読んでいたので、当然ながら巨人国と小人国のことを連想した。それと、時間を空間に変換して表現している点で、スタニスワフ・レムが子どもの頃、時間という概念を空間の範疇に収めて考えていたというエピソードを思い出した。つまり彼は、明日というものは上の階にあり、それが今日になると自分の住んでいる階に降りてきて、昨日になってしまうと下の階に沈むのだと思っていたんだそうだ。自伝的小説「高い城」にそう書いている。

 カバコフのこの作品では3つの世界が同じ空間にあるにもかかわらず、互いに理解は示さず、別々のものとして共存している。これまでの彼の作品でも、異なる複数の世界や声が並列されているものはかなり多い(「十の人物」「共同キッチン」「プロジェクト宮殿」など)。それらは整理されないまま、異なる個の堆積として提示される。

 さて、個々のフレームに一緒に収められている写真とテキストだが、これも直接には相互関係がない。ソ連時代の社会主義リアリズム的なもったいぶった写真、あるいは映画・演劇・バレエの大仰にドラマチックな写真に、古めかしい感傷的な美しい詩句が並ぶ。写真も詩も個別に取り出してみれば真面目なものなのだが、2つ並べることでそれぞれが相手を異化し、無化しあっているように見える。要するに私には両方ともナンセンスにされて茶化されているように思えた。このことは、写真であれテキストであれ、もともとあった文脈から切り離して別の文脈に置くとまったく意味が変わることを示唆していて、写真とテキストを扱っている身としてはなかなかに恐ろしい。あんたが一生懸命やっていることなんて他人から見れば無意味なんだよ、と言われているように感じたからだ。

 もちろんこの作品にはロシアの歴史も関わっている。帝政時代が潰え、共産主義時代も崩壊し、混沌とする現代のロシア。ここ数年、外国のあちこちの美術機関を転々としながら作品を発表しているカバコフ夫妻の思いは、タイトル「私たちの場所はどこ?」に端的に表れている。

 展示会場はいくつかの部屋に分かれていて、延々と似たり寄ったりのフレームが並んでいる。1枚1枚の写真をじっくり見、テキストを全部読んでいる観客はほとんどいない。

 この美術館は六本木ヒルズ森タワー52階にあって入場券が展望台とセットになっている。平日昼間にこんなところにいるのは、地方から東京見物に来たおじさんおばさんばかりだ。であるから大部分の客は展望台が目当てなのだけれど、券がセットだしせっかくだからついでに美術館にも寄ってみようと入ってくる人も中にはいる。そういう人たちはたいてい3、4人連れで、会場にいる間ずっと大声でしゃべりつづけている。おばさんたちは最初の部屋で巨大な足と額縁の部分を目にして、まず素直に驚く。そして会場係員の女性に、これはどういう意味なんですか? これはどうしてこんなふうになっているんですか? 額縁をどうして切っちゃったんですか?(それを聞いた私は「切ったんじゃなくて、その部分だけ作ったんだよ!」と心の中で叫ぶ)などと質問をする。作品と一対一で向き合って沈思黙考するなどということは思いもつかないようだ。それでも質問するのはまだいい方で、おじさんの中には「こういうの難しくて俺にはわかんね」と言ってすたすたと通り過ぎてしまう人もいる。

 同時代の同じ空間にいても人は隣の人の考えていることさえ理解しようとしない。過去や未来や遠く離れた場所にまで思いをはせて理解しようとする人はもっと少ないだろう。人と人の間に横たわる時空間の距離がぐわーんと広がっていく気がした。と同時に、ひとりひとりの人間それ自体が1個の世界であることにも思い至る。

 ミクロとマクロのスケールを自在に行き来するカバコフ作品の魅力を満喫した。



二度あること 2004.5.31(月)

 なってるハウスで私の写真展の期間中に、外国人ミュージシャンが2人出演した。ヴァイオリンのビリー・バングとピアノのパク・チャンスである。その2日とも店長が不在だったので私が店番をしていた。

 5月2日。ビリー・バングはちょうど来日ツアー中で、なってるハウスはツアー予定に含まれていなかったが、羽野昌二さん(ds.)宅に泊まっていたのでいっしょにやって来て、スペシャルゲストとして参加してくれた。私がビリーさんを生で聴くのは2回目。

 さすが大物。ビリーは短いリハ中に松本健一さん(Ts.)と永塚博之さん(b.)に音を出しながら新曲を教え、見事にステージを仕切っていた。そこで、いかにも楽しくてしょうがないというふうにスイングしまくった演奏をするのだ。音のひとつひとつの輪郭がくっきりしていて力強く、粒立っている。

 休憩時間に壁の写真を眺めていたビリーが、ヴァイオリンの横川理彦さんの写真を見つけ、これはだれだと訊くので、名前を教えて、「彼は明日ここで演るんですよ」と答えたら、「明日俺が演るところとここはどのくらい離れているんだ? 何分ぐらい掛かる?」と訊く。自分のライヴが終わったら、ここに来て横川さんの演奏を聴きたかったようだ。翌日のライヴは彼と太田惠資さんと勝井祐二さんの3人でトリプル・ヴァイオリン@西麻布スーパーデラックス、なってるハウスは横川さんと室舘彩(fl.vib.vo.)のデュオだった。でも2つとも同じ時間帯なので無理ですよと言ったらあきらめたようだ。ついでに翌日の共演者、太田さんと勝井さんの写真をビリーに見せておいた。

 5月15日。韓国フリーミュージック・シーンで数々の実験的な演奏を試み、独自の位置を占めるパク・チャンス。なってるハウスでの彼の共演者は千野秀一さん(pf.)と浦邊雅祥さん(sax.)。3人とも強い個性の持ち主、しかもそれぞれダンスや演劇や映画など音楽以外のジャンルとも関わって活動している人たちなので、音はもちろん、見ていても大変面白いライヴだった。千野さん、ありがとう! 私はパクさんを聴くのも、浦邊さんを聴くのも偶然2回目。

 5月16日、スズキイチロウ・カルテットの日に、見知らぬ外国人のお客さんがふらりと入って来た。なってるハウスでは珍しいことである。この人はなんと私をたずねてケルンからやって来たセバスチャンさんだった。彼の友人が昨年エッセンの展覧会で私の写真を見てe-mailをくれたのがきっかけで、日本の写真に興味があるという彼もメールをくれるようになったのだ。昨年中に来日する予定だったが、直前に足を骨折し入院したため来られなかった。また5月頃行くつもり、というメールを一応もらってはいたが、それっきり連絡がないのでもう来ないのかと思っていた。

 セバスチャンさんは壁の写真の中から坂本弘道さんがチェロを逆さにしている写真を指して、この写真を買いたいと言うので、「その人は明日ここで演りますよ」と答えると、「じゃあ明日もここに来る、私もベースを弾くし、アヴァンギャルドな演奏に興味があるんだ」と言う。どうやらチェロとベースを間違えているようだったが、あえて訂正はしないでおいた。彼はエフェクター類が好きらしく、イチロウさん(g.)のエフェクターを写真に撮っていたので、明日は電気器具がもっとたくさんありますよ、と教えてあげたらますます喜んでいた。

 翌17日、太田惠資(vln.vo.)vs坂本弘道(vc.electronics)初対決は大入り満員。互いの手の内を知っている相手だからこそできるネタの応酬に、会場は沸きに沸いた。セバスチャンさんも大いに満足した様子だったのでよかったよかった。

 彼はあと2週間ほど日本に滞在すると聞いていたから、ギャラリーや美術館を案内できればと思い、電話するように言ったら、顔を曇らせて、父親の体の具合が悪いので予定を早めて帰国しなければならないかも、と言う。その後彼からの連絡はない。

 5月22日、坂本弘道さんがライヴを欠席。お父さんの容態が急変しため急遽実家に戻ったと聞かされる。



猫の帰還 2004.5.12(水)

 昨年10月から行方不明になっていた近所の猫が半年ぶりに帰ってきた。

 この雌猫は、私がいつも駅に行く道の途中にある製麺屋さんに飼われていて、昼間はたいていその家の前か、隣の駐車場にいる。背中が雉虎でお腹が白い日本猫だ。しっぽはアライグマのように縞模様でふさふさしている。もう何年もそこにいるので結構な歳だと思う。なでられたりしても平気だから、近所の猫好きの人は知っていて、通るたびに眺めたりなでたりしていたようだ。

 その家の前に「この猫を探しています」というカラー写真入りの張り紙が出されたのが昨年の10月25日。なぜ日付けがわかるかというと、手帳にメモしてあるからだ。

 ボグダンが飼っていた子猫のチンドンは2002年3月18日に家を出たまま、いまだ行方知れずである。どこでどうしているのやら。

 そんなこともあって、山下洋輔氏がお参りしたらいなくなった飼い猫が戻ってきたという霊験あらたかな立川の阿豆佐味天神社、通称「猫返し神社」のことを思い出し、お参りに行ったのが昨年暮れの12月23日。とはいえ私は決して信心深いわけでも迷信深いほうでもない。ただこういうことがあると、行ったことがない場所に行く口実になるし、とりあえずお参りしておけば気が済む、という精神衛生上の効果がある。受験生が天神様に願をかけるようなものだ。

 阿豆佐味天神社は安産・子授けの守り神である立川水天宮を祀っていて、駅にも大きな看板があり、かなり有名な神社のようだった。境内はよく整備され、本殿は大変立派な建築だった。私が訪れたときにも赤ちゃんを抱いた家族がお参りに来ていた。もっとひなびたところを想像していたので少々拍子抜けした。

 本殿にお参りしてから、右側にある小さなお社をよく見れば、「蚕影神社 (別称 猫返し神社)」の看板が立っているではないか。こちらのほうだったのか…と改めてお賽銭を投げ入れる。

 山下氏がお参りした頃はこの「猫返し神社」の看板はなく、猫好きだけの知る人ぞ知る神社だったらしい。いまでは猫のイラスト入り絵馬もあって商売になってしまっているから御利益はどうかなあ…といぶかりつつ帰路についた。ちなみに掛かっていた絵馬には、「○○(飼い猫の名)が帰ってきますように」と埼玉県内の地名と願かけた人の名が書いてあった。かなり遠くから来る人もいるのだなあ。

 年が明けて、近所の猫の張り紙は引っ込められてしまった。飼い主もあきらめてしまったのかとちょっとがっかりした。

 やっぱり猫返し神社なんて効かないんだと思っていた頃、思いがけず製麺屋さんの猫は戻ってきた。4月の半ばのある日、その家の前に以前のようにちょこんと座っていたのだ。首輪には3メートルほどの紐がつながれ、ある程度動けるが逃げられないようになっていた。

 半年間どこに行ってたんだ? と猫に訊いても答えない。猫が人間の言葉を話せたら面白いだろうになあ、と、これは「綿の国星」にも書いてあったっけ。

 飼い主にわざわざ事情を訊くのもなんなのでそのままにしていたが、一昨日、そこのおばさんが知り合いのおばあさんと立ち話をしているのがたまたま耳に入り、それで一部始終を知った。

「銀行のそばに焼き鳥屋さんがあるでしょ?」
「ああ、あるねえ」
「焼き鳥屋さんに居着いてたの。それで連れて帰ってきたのよ」

 猫はうどんより焼き鳥のほうが好きなんだろうなあ。




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