Recent Days
このごろのシバタ
[back number 3]




人生において有益な助言 2005.6.2(木)

 いままでに私が人から言われて大いに役立った助言。

 その一。

 高校生のとき、漫画研修同好会のK先輩(女性)が、
「口は閉じておいた方がいいよ。でないとバカに見えるから」
と言ってくれた。こう言われていなければ、私はいまだに口をぽかーんと開けたままのバカ面を世間にさらしていたであろう。K先輩には大変感謝している。

 そのとき、たしか私は漫研の他の先輩がたの意見に納得できず(何が問題だったかは忘れた)、捨て台詞を吐いて部室を出てきてしまったのだった。K先輩は校庭にいた私を見つけて、
「ああいうふうに言うもんじゃないよ」
と、わざわざ言ってくれたのだ。そのときの私はバカ面だったばかりか、まだまるっきりのバカだったので、その意味が理解できなかった。そして、しゃべっていないときは「口を閉じておくこと」だけを覚えた。

 その二。

 大学生のとき、英語担当のS先生に授業のあとで個人的に質問しに行ったとき、
「意見や疑問があったら目上の人に対してもどんどん言いなさい。ただし相手に対してくれぐれも丁重な態度で、丁寧な言葉遣いをしなさい」
という意味のことを言われた。

 それまでいろいろと人に意見しては生意気だと突っぱねられていたわけがようやくこれでわかった。ちょっと悟るのが遅いが。

 人は相手の言い方や態度が気に入らないと、言葉の内容を理解しようとする前に、そもそも話を聞こうとしない。

 それまで私は、形式はともあれ内容が正しければ/良ければよいのだ、と思っていたが、それは明らかな誤りであった。

 内容を適切に伝えるためには、適切な形式が必要である。

 「外見よりも中身が大切」というのも嘘だ。多くは外見で判断されてしまうのだから、中身にふさわしい外見を繕うことも必要なのである。

 考えてみれば、グラフィック・デザインていう仕事はまさしくそういうことじゃないか。



椅子 2005.5.26(木)

 2、3日前、デスク・チェアとして長年使っている木製椅子のねじがポロッと抜け落ちたので、椅子をひっくり返してねじをもとどおりに締めなおした。

 その際、座面の裏の右側面に、メーカーのものらしきシールが貼ってあることにはじめて気付いた。

 椅子を横から見たシルエットをかたどったマークと「FISCHEL」というロゴ、その下に小さく「IMPORTE de TCHECOSLOVAQUIE MADE in the CZECHOSLOVAK STATE」の文字。

 さらによく見れば、座面裏の前側には、消えかけているが「FISCHEL TCHEC…V…」という文字の焼き印が押されていた模様。

 なーんだ! この椅子はチェコスロヴァキア製だったのか!

 恵比寿のイギリス骨董家具を扱う店で買ったものだし、座面の背にイギリスの家具屋の銘板が付いているので、てっきりイギリス製だと思いこんでいた。

 が、じつは、いまはなきチェコスロヴァキアという国で作られて、外貨獲得のためにフランスやイギリスに輸出されていたものだったのだ。それが流れ流れてこんな極東の国までたどり着くとは。しかも隣国ポーランドの文学をかじっている人間のもとに…。この椅子、ひょっとするとけっこう数奇な運命をたどってきたのかも。

 ついでに。チェコといえば、最近、池袋ビックカメラで、チェコ製FOMATONEの印画紙が売られているのを発見。イギリスのイルフォード、ドイツのアグファはもちろん、フランスのベルゲール、ハンガリーのフォルテはしばらく前から店頭で見かけたが、ついにチェコ製印画紙まで池袋で買えるようになったか、という感じ。印画紙という製品は絶滅危惧種で、私が使っていた某日本製品も製造中止になってしまった。商売として成り立ちがたいのは理解できるが、どこのメーカーもなるたけ長くがんばって作り続けてほしい。



トロントのこと 2005.4.18(月)

 トロントについては前に書いたことがあるなあと思って、探してみたら、平成元年に出した個人誌に載っていた。

 入谷交差点のそばにレストラン喫茶があり、たいてい夜7時半すぎにその店の前を通るとお客さんが結構入っているから、きっと料理がおいしいのだろうと思うが、私はまだ入ったことはない。

 この道を通るようになってかれこれ3年になるが、最近になって初めてこの店の名前が「トロント」であることに気付いた。

 トロントという名で思い出すのは、その平成元年に書いた「トロントのこと」だ。読み返してみると、当時は覚えていたことも、16年を経て一部忘れていたりするので、書いておいてよかった、と思った。


「トロントのこと」再録

 私が小学校3年生くらいの時までだったと思うが、近所に「トロント」という中華料理の店があり、母と妹と3人で、ときどき行ってはラーメンを食べた。

 そこは、黒パイプに赤いビニール張りのかたい椅子と、ニセモノの木目をつけた化粧版のフチを金属でかこったテーブルが数個並ぶ、どこの街にも1つや2つは必ずある「食堂」なのだった。

 ショーウィンドーのガラスはなんとなく黄色っぽく、ラーメンやチャーハンのサンプルは日焼けとほこりで白っぽくなっている。模様のついたくもりガラスのドアを押して入ると、目かくしとして、ステンレスパイプの枠にサテンの布を張った衝立が置いてあり、ホールの右奥には2階へ上る階段が見えるが、私と母と妹は、一度も2階へ上がったことはなかった。

 レジスターは大きく緑がかったグレー。キーは今と違って機械式なので、押す時にえらく力が要るし、一つ値段を打ち込むたび、速回しでガチャガチャガチャ、と言う。ひどく騒々しい大袈裟な機械。また、椅子を移動する時は、ひきずるとガガガというので、なるたけ持ち上げなくてはならない。

 テーブルの上には、こしょうなど調味料の他に、頭の上がアルミの灰皿になった、おみくじだかピーナツだかの販売機があった。20円だか30円だか入れて、レバーを引くと商品が転がり出る仕組みだったらしい。私はそこへ行くたび、販売機の腹に書いてある文字の読めるところはすべて読むのであったが、何度読んでもすっかり理解できず、なんだか得体の知れない機械のように思えるのだった。私と母と妹は、一度もそれにコインを入れたことはなかった。また、他の人が入れるのも見たことがなかった。未だに見たことがない。

 ホールと調理場の間のあたりには、折り紙とリリアン糸で作ったくす玉とか、いつ掃除したのかわからない緑色の水槽(金魚がいるのかいないのかわからない)とかもあったかもしれない、よく覚えていないが。

 それにしても「トロント」という名は強烈であった。

 普通、ラーメン屋なんてもんは、中華っぽさを押し出すなら○○軒とか○○亭とか○○飯店と決まっているし、大衆食堂ならそのうちの名字、屋号か縁起かつぎの名まえ、ラーメン専門なら○○ラーメン、とにかく、店の雰囲気がわかる名まえが、大体のところついている。

 しかし、トロントではなんだかわからない。子供心に、ワンタンの感触がトロントという感じだからかな、と考えてみた。なぜトロントなんだろうと考えていると、頭の中がトロントというカタカナ4文字と音でいっぱいになってしまうのだった。

 だから、トロントというのが実際の地名であると知った時は、すっごく奇異に思えた。

 私の母は地理にはからきし弱いから、子供が「トロントって変な名まえだね」と言っても、その由来のヒントを教えてはくれなかった。母は、ラジオのニュースか何かで「トロント」が聞こえた時は、子供と同様、いやそれ以上に、ヘンな感じがしたのではないかと思う。つまり、カナダにいきなり、うちの近所のラーメン屋さんが建ってしまっているというような。



瀧口修造の絵 2005.4.14(木)

 世田谷美術館で開催されていた「瀧口修造:夢の漂流物」展を4月1日に見に行った。この展覧会の告知ハガキに故・大辻清司先生が撮った瀧口氏の書斎のカラー写真が使われていて、そのこっくりした濃密な色と、机の上に所狭しと並ぶ不思議なオブジェ群に惹かれた。

 もっとも、大辻先生撮影の瀧口夫妻のポートレートや書斎のモノクロ写真は、以前に何度か見ている。瀧口修造という人に残念ながら私は生前会う機会がなかったけれど、大辻先生の写真を見ると、瀧口氏の人柄がおのずと立ち現れて来るようだ。

 展覧会場に入ると最初に、その書斎に座っている瀧口夫妻の写真が、実物大に近い大きさのパネルになって掛かっていた。瀧口氏がそこでいま開いて眺めていたとおぼしき画集の表紙の文字まではっきり読めるのが興味深い。ジョゼフ・コーネルだった。

 最初のホールに瀧口氏自作のデカルコマニー(紙に絵の具を塗り、二つ折りにしたり別の紙を押し当てたりして偶然のイメージを得る技法)の小品が20点ずつ5枚のパネルに展示されている。これがことのほかいい絵ばかりで思わず見入ってしまった。10センチ四方ほどの絵の具の染みが、なぜこれほどの深みや情念や壮大さを持っているのだろう。大海や山間の湖のように見えるものもあった。リトアニアの画家チュルリョーニスの絵を思わせるような異界を現出させている。そのままラヴクラフトの小説の挿絵になりそうだ。

 次のホールからは、瀧口氏と交流のあった前衛美術家たちが瀧口氏に贈った作品やそれに関連した資料が展示されていた。この美術家たちがまた錚々たる顔ぶれなのだけれど、作品は知っていたものも多く、それほどの意外性はない。赤瀬川原平さんがガリ版に切った「誕生日おめでとうございます」のメッセージが読めたのはめっけものだった。ガリ版というアイデアが赤瀬川さんらしい。

 あとから思い出したのだが、じつは私は瀧口氏の絵にずいぶん以前から親しんでいたのだった。

 私の机の前の壁に小さなカレンダーが掛かっている。改めて見ると1991年版みすずカレンダーで、もう14年も前のものだ。2か月ごとに1点ずつ瀧口修造の絵が印刷されている。この絵に心惹かれ、2か月ごとに1枚ずつやぶっても捨てるに忍びなく、1991年が暮れても捨てるのは惜しくてとっておいたのだ。しばらくは机の中にしまっておいたのだったかもしれないが、また引っ張り出して目玉クリップにはさみ、虫ピンで壁に留めてから、おそらく優に10年は経っている。

 掲載の作品は、キャプションによると、1960年代前半の「文字のない詩集」と「ポストカード・ドローイング」からの水彩。デカルコマニーとバーント・ドローイング(紙を焼く技法)も含まれている。

 これを朝な夕なに眺めて、もう無意識の領域に入っていたが、今回の展示を見てから改めて見直してみると、やっぱり、いいのだ。



夢の中のケルン、夢の中のベルリン 2005.4.12(火)

 今朝の夢の中で私はケルンにいた。

 実在するドイツのケルンとは様子が違う、おそらく私の夢の中にだけ存在するケルン。

 知り合いのピエトロとヨラ(この人たちは実在する)のうちに行こうとして電話をするが、何だか話がうまく通じない。

 夕暮れ時、彼らの住むアパートの入口に入ると、玄関ホールに、同じアパートに住む知人のトマスと彼の奥さん(これも実在)と子どもなど数人がいた。階段を上がっていくと、たまたま降りてきたピエトロに出くわす。会えてよかった。でも様子がおかしい。ヨラに何か悪いことがあったらしい。その場では訊けない雰囲気。

 ピエトロはそのままどこかへ出かけてしまい、結局ゆっくり話はできなかった。

 明日の朝食を確保しようと、食料品店を見つけて中に入る。

 カウンターの向こうにある商品を店員に取ってもらう方式で、10数人の客が行列している。手前の棚の商品は手に取れたので、私はオレンジジュースの1リットル入り紙パックと、キュウリのピクルスのピューレらしきもの(パンに塗って食べよう)がちょっぴり入った細長い瓶を取った。あと小さなパンを2、3個と、ハムかチーズを買えばいいやと思って、列の最後尾に並ぶ。バターナイフをだれかに借りなきゃと思いながら。


 3月11日の朝の夢では、私はベルリン市内のどこかの駅近くにいて、公衆電話をかけようとしていた。(このベルリンも実在のベルリンとは様子が違う、私の夢の中だけに存在するベルリンだった。)駅前にバス乗り場があって、周囲は小高い丘の住宅地になっている。

 ICカード式の電話がなかなか見つからない。コイン式のはときどきある。が、いずれにせよ壊れているか、壊れていないものは人が使用中なのだ。

 電話機を少年2人が壊しているところを目撃する。

 ようやく空いているまともな電話を見つけ、ピエトロのうちにかけてみると、ヨラが出てドイツ語であわてて何か言っている。(この夢の中ではピエトロとヨラはベルリンに住んでいることになっていた。)私はドイツ語がわからないので、連れのドイツ人(だれなのか不明)に受話器を渡す。どうやらピエトロがどこか高いところから落ちて重傷を負い、歩けない状態だということらしい。ということはカメラマンの仕事もできないし、ヨラは困っているだろう。会いたかったが、2人にどう言えばいいのかわからないから、会いに行くのはよそうかとも思う。



コジキと「もくさん」 2005.3.14(月)

 小学校の国語の時間、先生が黒板に「古事記」と初めて書いたときのことを覚えている。

 教室の中がざわついた。「フルゴト…?」「フルジキ?」「コ…ジキ」

 「えーっっ、コジキーッッ?!!」「コジキだってー!!」

 それに続く下卑た笑いと大騒ぎの中で、私はみんなが何を笑っているのかわからずキョトンとしていた。

 みんなが考えているコジキというのが「乞食」のことで、いまでいうホームレスの人のことをそう呼んでいるのだと、あとでわかった。

 私が思い浮かべる「乞食」というのは、道端に座って「右や左の旦那さまー、どうかお恵みを」と物乞いをする人だったが、実際にそんな人を見たことはまだなく(ただし傷痍軍人は見たことがあった)、それは漫画やコントの世界の中にだけ存在するものだった。

 近所の児童公園などでときどき、ホームレスのラスタ・ヘアの男を見かけることはあった。当時はホームレスという言葉はまだなく、そういう人のことは浮浪者と言っていたと思うのだが、私のうちではもっぱら「もくさん」と呼んでいた。よそでは聞いたことがないから、うちの母の造語かもしれない。「もくさん」という言葉にはとくに否定的な意味は感じられなかった。私はそれを、「○○さん」とか「おじさん」と同じ、呼び名の一種だと思っていた。

 十数年後に外国に行って初めて私は道端で物乞いする人を見た。



コーヒーの青 2005.2.28(月)

 昨日、冷めたコーヒーを温めようと琺瑯の片手鍋に入れて火にかけた。ちょっとのつもりでその場を離れて別の作業をしはじめたらコーヒーのことはすっかり忘れてしまった。おそらく15分か20分ほど経って焦げ臭い匂いがしたのでようやく思い出し、急いで火を止めた。幸い大事には至らず、鍋の底が黒焦げになっただけだった。焦げ臭い匂いを追い出すため台所の換気扇を回し、鍋は冷めるまでそのまま放って置いた。

 鍋の底には砂糖を焦がしたときのように、ぶくぶくと泡だったカラメル状のものが固形化している。コーヒーには砂糖もクリームも入っていなかった。最初は単なる黒焦げと見えていたのが、しばらくすると周囲に青い色が見えてきた。その青みは気のせいか次第に範囲を増したようで、鍋の底面積全体のほぼ5分の2を占めるようになった。コバルトブルーというのか藍色というのか、はたまたイヴ・クライン・ブルーをも思わせる深い青で、ところどころメタリックな質感を帯びている。

 この青はコーヒーのうち何の成分の色なのだろう? ご存じの方がいらしたら、ぜひ教えてほしい。



時を越える本たち 2005.1.9(日)

 毎年年末になると新聞・雑誌で「今年のベスト3冊」を著名文化人の方々に選んでもらうというような企画が必ずある。どんな人がどんな本を選んでいるのか見るのは面白いが、そこに挙がっている本のうち私が読んだものはほとんどない。なぜなら私は新刊書ばかりを読んでいるわけではないからだ。

 興味を追っていけば、むしろ古い本に手を伸ばすことが多い。たいていは最寄りの図書館のコンピューターで作家名か題名かテーマで検索して探し出す。

 昨年の読書を振り返ってみると、前半は、これまで読んでいなかった日本人作家のSFをざざっと読み、それに関連していまさらながらラヴクラフトを読んだ。春には認知障害と強迫性障害に関する本を2、3冊かじり、秋以降は古典落語にどっぷり浸った。その合間に翻訳物かポーランド語の、短篇集かエッセイ集など軽めのものを少しずつというペースである。

 昨年私が読んだ本のうち、昨年中に発行された本は以下の8冊だけ。『要約世界文学全集I、II』木原武一(新潮文庫)、『不良少年』工藤幸雄(思潮社)、『トランス=アトランティック』ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ、西成彦訳(国書刊行会)、『ソラリス』スタニスワフ・レム、沼野充義訳(国書刊行会)、『ぼくの翻訳人生』工藤幸雄(中公新書)、『翻訳文学ブックカフェ』新元良一(本の雑誌社)、『フリアとシナリオライター』マリオ・バルガス=リョサ、野谷文昭訳(国書刊行会)。このうち『トランス=アトランティック』と『ソラリス』と『フリアとシナリオライター』は翻訳は新しいけれど原書が書かれたのはずいぶん昔だし、『要約世界文学全集I、II』だって要約は新しいが原著は古典ばかり。

 まあ読みたい本はたくさんあるのだけれど、時間は限られているから追いつかないというのが正直なところだ。

 テレビ番組や映画やポップスや漫画は時代と密接にリンクしていて、同世代がほぼ同じものに接しているけれど、読書体験はそうとも言い切れない。本は時代や世代を越えて読者に届く。

 そのことに初めて気付きハッとしたのは、たしか小学校4年生の頃だ。

 当時私は古代遺跡に興味を持っていて、シュリーマンの伝記やインカ帝国に関する本を図書館で借りては読んでいた。そのころ『インカ帝国のなぞ』(だったと思う)という本の著者、泉靖一さんのあとがきを読んで、子供心にいたく感銘を受けた。宗教の違いによって戦争が起きるのだったら宗教など信じないで無神論の方がよいではないか、というような内容だったと記憶している。この泉さんという人に手紙を書きたいと思ったのだが、彼は1970年に55歳の若さで亡くなっていて、すでに故人だった。この本の作者はもうこの世にいないということがちょっとショックだった。

 それから何年も経ち、大学生の頃、泉靖一著『フィールド・ノート[野帖](新潮選書)を読み、南米アンデスの研究者として著名な彼の青春の夢がじつはユーラシアにあったと知り、ふたたび軽い衝撃を受けた。その当時、ちょうど私はロシアに興味を持っていたからだ。生前に面識がなかった泉氏とは、これで2度目の邂逅を果たしたことになり、その絶妙なタイミングに偶然とは言えない何かを感じる。

 ついでに言えば、子ども向けに書かれたシュリーマンの伝記『夢を掘りあてた人』という本のなかに描かれていた、シュリーマンの外国語習得方法がとても印象深かった。自分が習得したい言語で書かれた本をひたすら音読するというものだが、その際ひとりでは駄目で、聞いてくれる人が必要だといって、どこかから外国人をつかまえてきて、朗読する間、前に座っていてもらうのだ。その外国人が当該言語の話者かどうかは厳密には問わないところが不思議だったし、その方法でシュリーマンがいくつもの言語をマスターしてしまったことも不思議だった。

 シュリーマンは長い間私のあこがれの人だった。彼はホメロスの詩がフィクションではなく史実だと直感して、周囲からバカにされながらもトロイア発掘に商売で作った自分の全財産をつぎ込むという暴挙を敢行し、発見という快挙を成し遂げる。その本の中ではシュリーマンが信念を貫いたことを称える内容になっていたと思うのだが、私がなにより感動したのは、彼が資金調達も言語の習得も、発掘に必要な準備一切を独力で成し遂げたことだった。

 シュリーマンが何らかの形で私に影響を与えているのかも知れない。言語はコミュニケーションの道具なのだから、コミュニケーションしたい気持ちがあれば、道具の使い方はなんとか覚えるものだという変な自信が私にはある。

 何の因果か、私は自分が生まれた頃にポーランド語で書かれた本を、21世紀の今頃になって日本語に訳すという作業をしている。これもシュリーマンや泉氏や、そのほか本を通して時代を越えたさまざまな出会いがあったおかげなのだろう。




最新版はこちら [back number 1]
2004.1-4
[back number 2]
2004.5-11

△このページのトップへ
to the top of this page

≪トピックスへもどる
to the Topics


| Topics | Essay | Recent Days | B's Diary | A's Gallery | B's Gallery | Exhibitions | Books & Goods | Profile | Links |

©2004,2005 SHIBATA Ayano & Bogdan Zawadzki | all rights reserved. link free.