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レムさんちへの道 その2エッセイ第18回シャルロトカをご覧ください。


レムさんちへの道 その1 2006.3.7(火)

 昨年7月、初めてスタニスワフ・レム氏のお宅を訪問した。1992年以来、毎年クラクフにひと月やふた月は滞在しているのだが、レム氏に直接会いに行くなんてことは畏れ多くて二の足を踏んでいた。

 そもそも私がポーランド語を勉強するきっかけとなったのが、高校の図書室で借りて読んだレムの「ソラリスの陽のもとに」と「砂漠の惑星」だった。漫画と幻想文学とSFを手さぐりで読みあさっていた当時の私にとって、それは、これまでに経験したことのない、何か途方もなく深淵で、おもしろく、読み応えのある小説だった。

 それからというもの、日本語で読めるレムの作品はほとんどすべて読んだ。折しも早川やサンリオから次々とレムの新刊が出ていた幸せな時代であった。SF専門誌もいまよりたくさんあった。サンリオSF文庫の近刊予告を見ては期待に胸を躍らせていた。ところが、私が大学を卒業すると同時にサンリオ文庫はつぶれてしまった。

 私が就職して3年目の春、「連帯」が選挙で勝利し、私は9月から週1回ポーランド語の学校に通いはじめた。秋が深まり、ベルリンの壁が崩れ、「完全な真空」が国書刊行会から出たものの、サンリオSF文庫で予告が出ていた他のレム作品はいっこうに訳される様子がなかった。そして、ポーランドやロシアの面白い小説を精力的に訳していた深見弾氏が50代の若さで亡くなってしまった。

 そうこうするうち、やはりポーランドのコワコフスキやムロージェクの面白不思議な短篇に出会い、読みながら勝手に訳したりしていたら、それがさいわい出版にこぎつけたのだから不思議なものだ。

「高い城・青春詩集」
スタニスワフ・レム
1991
Wydawnictwo Literackie
カバーデザイン:
ヴワディスワフ・プルータ


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 レムの「高い城」は、たしか1994年夏にクラクフの本屋で購入し、いったん読み始めたが、語学力不足でしばらく放ってあった。数年後に再挑戦し、読みながらざっと訳してみた。紆余曲折あったが、後年、晴れて国書刊行会のレム・コレクションに入ることとなり、改めて最初から訳し直した。

 いざきちんと日本語にするとなると調べなくてはならないことが頻出した。熟語、俗語、学術専門用語、ラテン語成句、聖書の引用、地理や歴史、固有名詞やら事実関係やら、なんやらかんやら……。もしもネット検索という便利なものがなかったら、翻訳作業はさらに難航していただろう。

 そんなわけだから、自分なんかがレムの翻訳をやっちゃっていいのかなあ、という気持ちがいまでもある。もっと博識で、語学力があって、日本語の語彙と表現力が抜群に豊かな人がいたら、喜んで翻訳を代わってもらいたい。

 とはいえ、私はつねづね、翻訳は、「書く」よりも「読む」に近い作業だという気がしている。翻訳者は読者の1人として、「私はこのテクストをこう読みました」という1バージョンを提示することしかできない(芸達者な訳者なら1人でいくつかのバージョンを示すことも可能かもしれないが、出版されるのはたいてい1バージョンだ)。

 それはなにも外国語でなくとも、日本語のテクストだって同じことなのだ。新聞記事でもエッセイでも、どんなテクストでもいいから、最近読んだ日本語の文章を自分の言葉で言い換えてみるといい。自分では理解したと思っていたことがいかに曖昧だったか、自分の語彙がいかに貧弱かに気付くだろう(私はよくそう気付く)。

 私がもっと年をとって、レムが「高い城」を書いたときと同じか、それより上の年齢になってから「高い城」を訳したとしたら、はたしてもっと含蓄のある訳文が生まれるのだろうか?



旅する歌 2006.3.5(日)

CD「20年代30年代」
2004 POMATON EMI


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 クラリネットの大熊ワタルさんとピアノの千野秀一さんが、昨年10月のライヴでタンゴの曲を演奏した。大熊さんはこの曲のタイトルも作曲者も知らず、ただ、ユーリー・ノルシュテインのアニメーション映画「話の話」に使われていた曲、と紹介した。

 その曲はたまたま私が昨年夏クラクフで購入したCDに収録されていた。1920年代、30年代のポーランドの流行歌23曲を復刻したCDである。早速、大熊さんにメールでお知らせした。

 曲名は「To ostatnia niedziela ト・オスタトニャ・ニェジェラ」――これが最後の日曜日。作詞ゼノン・フリードヴァルト、作曲イェジィ・ペテルスブルスキ、歌ミェチスワフ・フォッグ、1935年の録音。

 ミェチスワフ・フォッグは戦前に活躍したポーランドの有名な歌手で、彼の歌は懐かしのメロディーとしていまでも広く歌われ、カラオケCDまで発売されているほど。作曲のイェジィ・ペテルスブルスキは当時のヒット・メーカーのひとり。彼の曲はレコードやラジオや映画によって世界中に知られるようになった。

 「これが最後の日曜日」は、自分より裕福でいい男に恋人をとられてしまった男が、最後のお願いだからあと1日だけ日曜日を僕にください、と恋人にうったえる詞が、哀調を帯びたタンゴのメロディーにのせて切々と歌われる。

   [前略]
 これが最後の日曜日
 今日僕らは別れる
 今日僕らは離れる
 永遠に
 これが最後の日曜日
 だから僕のためにそれを惜しまないで
 今日は僕にやさしい眼差しを向けておくれ
 最後だから
 君にはこれからたくさんの日曜日があるだろう
 僕がどうなるか誰が知ろう?
 これが最後の日曜日
 僕が夢見た夢は
 待ち焦がれた幸せは
 終わった!
 [後略]

 いま東京都現代美術館で開催中(3月26日まで)の「転換期の作法 ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術」には、興味深いビデオ作品がいくつか出品されている。

 その1つがポーランドのアルトゥール・ジミェフスキの「我らの歌集」(2003年/13分40秒)。ジミェフスキ(1966年生まれ)は、ポーランドを離れてイスラエルに移住した老齢の人々を訪ね、記憶に残る母国の歌をうたってくれるように 頼んだ。朗々と軍歌を歌うおじいさんもいれば、さっぱり思い出せないわと言うおばあさんもいる。ポーランド国歌は切れ切れにしか思い出せない人も、戦前の流行歌の一節はすらすらと出てきたりする。

 ひとりの老人が「To ostatnia niedziela…」と口ずさんだので、私はハッとした(字幕は「この間の日曜日」となっていた)。この人はその続きを思い出せなかったが、まぎれもなくあの曲だった。

 歌は70年以上を経て、一方ではソ連経由で極東の島国にたどりつき、他方ではテルアヴィヴに住むポーランド人の記憶の片隅にひっそりととどまり続けていた。



子どもの映像認識 2006.1.10(火)

病院のテレビで駅伝を見る人たち
SHIBATA Ayano©2006


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 箱根駅伝の往路の小田原中継所が東にずれて、今年は鈴廣の前ではなく、「ういろう」の前になった。そのせいか冷たい雨にもかかわらず、国道1号線の御幸が浜入口から箱根口あたりは例年に増して応援の人が多かったようだ。

 間中病院の車寄せには、雨宿りしながらガラス越しに待合室の大型テレビ画面を見る人だかりができた。いま先頭がどこそこあたりを走っているから、あと何分くらいで来る、と教えてくれる熱心なおじさんがいた。イガラシ写真館の軒先でも数人が歩道に芋が埋まっているとも知らず、雨をよけながら先導車が現れるのを待っていた。

 大晦日で2歳になった姪は、じいじに抱かれて読売新聞の旗を握っていた。駅伝の意味はわからないが、見たことないほどの混雑ぶりをおもしろがっているようだった。彼女の興味の対象は、通行人に抱かれた犬だったり、駅伝に夢中の親が置き去りにした乳母車に乗っている赤ん坊だったりした。

 全選手が通過して通行止めが解かれ、停留所に箱根行きのバスが止まると、姪は「コッコ」と声をあげた。コッコとは鳥のことである。じいじが「コッコなんていないよ」と言ったが、ばあばはバスの車体に貼ってある鳥のキャラクターのステッカーに気付いた。姪はその鳥の絵を目ざとくみつけて指摘したのだった。

 姪は動物が大好きで、本物の犬や猫を見ると大喜びなのはもちろん、動物の写真や絵を見るのも好きだ。写実的なものだけでなく、かなり抽象化してキャラクターやマークになったものにも敏感に反応する。彼女の親はキャラクターグッズが好きではないのだが、彼女が動物キャラクターのついた服や靴でないと身につけたがらないので、否応なくミッキーマウスやくまのプーさんなどのグッズに囲まれるはめになっている。

 象印のポットのマークを見ても姪は「ぞうさん」と言ってご満悦だ。たまたまうちにあったネズミの陶人形も、彼女にとっては「ぞうさん」だった。鼻がとがって突き出ていたからだろう。

 恵比寿さんと大黒さんの人形を見せると姪は「こしや」と言った。NHK教育テレビの子供向け番組で烏帽子をがぶった野村萬斎が「ややこしや〜」と言う演目があるのだそうで、そのため姪は烏帽子のようなものを頭にのせた人を見ると「こしや」と言う。頭に鉄骨が落ちて体が平べったくつぶれたペプシマンの人形も、姪にかかれば「こしや」である。

 また、姪はチューリップの絵を見ると「さいた」と言う。これは童謡「チューリップ」の歌詞から。もちろん本人は言葉遊びをしているという意識はない。それを聞いた大人たちがおもしろがるから、そう言うようになったのだろう。

 私は小さい頃、よくチューリップの絵を描いていた。上が3つのギザギザになった真横から見た花、茎の両側に2枚の細長い葉。だがそれは、本物の花を見て写生し、それを抽象化したのではなく、あらかじめそんなふうに描かれたものを見て真似したのにすぎない。本物の開いたチューリップの花を上から見ると、めしべとおしべが見えて、絵とは似ても似つかないことに驚いた。画用紙の上端を空色に塗り、隅に必ず赤い太陽を描き入れるのも、そういう習慣になっていたからであって、空がそういうふうに見えたからではない。

 生まれたばかりの子どもの目には、目の前の風景が単なる映像として写っているはずだ。そこに意味の解釈や抽象化は入り込まない。ところが2歳にもならないうちに、視覚情報を処理して様々に加工する複雑な回路が脳内にできあがっている。

 2歳足らずの姪は12月の私の個展を見て明確な反応を示した。展示写真30点のうち、彼女が感想を述べたのは4点。「ニャーニャー」「うまうま」「ミンミン」「おんぶ」。「ニャーニャー」は窓に猫がいる写真。いっしょに来たじいじはこれを見て「ワンワン」と言っていたのだから、2歳未満の子のほうが観察眼は確かだ。「うまうま」は荷馬車。「ミンミン」はミンミンゼミ。「おんぶ」は小学生の女の子が赤ん坊をおんぶして歩いている写真。これを見て姪はばあばにおんぶを要求した。

 これでわかるとおり、人は映像を見ると、自分に興味のある部分しか見ない。子どもも大人もそうだ。単なる映像を見て、それを単なる映像としてそっくりそのまま受け取ることはできない。そんなことをしていたら脳の処理能力が足りなくなるからだ。それで必要な部分だけ認識し、あとはゴミ箱に捨てる。

 だが、絵を描いたり写真を撮ったりする人は、一般の人がゴミ箱に捨てるようなデータのなかにも気になる部分をみつけてしまう。それが必ずしも何かの役に立つとか、重要な意味を持つというわけではない。ただ、それを見ていると生理的に気持ちがいい、というような曖昧模糊としたものだ。

 そんな、言葉では言い表せない、意味解釈以前の、無意識に入り込んでくる視覚情報を、なんとかすくい取ろうとして、写真を撮っている。



芋掘り、マグロ頭 2005.11.20(日)

 自転車に乗って国道1号線を御幸が浜入口に向かっていると、イガラシ写真館の前あたりで歩道を掘りかえしているのが見えたので、道路工事かと思ったら、そうではなく、芋掘りである。

 町内会の人たちが春に歩道下に植えておいた種芋が育って立派なサツマイモになったので、歩道の敷石をはがして町内総出で芋掘りをしているのだ。30センチほどもある大きな芋が土の中にごろごろ見えかくれしている。

 写真館の外壁に「持ち帰りはひとり3本まで」という手書きの張り紙。

 私は大ぶりの芋を1本拾って自転車の前かごに入れ、そのまま車道の端を走りすぎる。

 どこか別の場所で、路上に大きなマグロの頭が転がっているのを見つける。そのマグロの頭は持ち主が何かに使用したのだが、もう必要ないので捨てるつもりらしい。私はにわかに、捨てるにはしのびない、どうしてもうちに持って帰りたい、という気になり、そのマグロの頭を新聞紙に包んで自転車の前かごに入れる。

 うちに帰り着く頃にはマグロの頭は悪臭を放ちはじめており、にじみ出た赤い液体で新聞紙が濡れている。なぜこんなものが欲しかったのか、私にはもうわからなくなっている。

 台所の床にマグロ頭を新聞紙ごと放り出すと、そこから液体が四方に流れ出し、床に敷いてある生成のマットがたちまち薄赤く染まっていく。

 ああ、洗濯しなくては、と私はうんざりして暗い気持ちになる。

 以上は11月16日朝の夢。



べぼや橋 2005.11.11(金)

「べぼや橋」というのは、翻訳家の岸本佐知子さんのエッセイに出てくる、岸本さんが小さい頃、近所にあった橋の名。

 25年ぶりに付近を散策してみると、その橋はなくなっていた。そのことを家族に話したら、その橋があったことさえだれひとり憶えていない。試しにネットで「べぼや橋」を検索すると1件だけヒットした。でもそれは自分のブログだった、というお話。

 試しにGoogleで検索してみると、現在2件ヒットする。

 1件は岸本さんが書いているように、ご自身のブログ。もう1件は岸本ファンであるらしい読者のブログで、「現在、検索してほんとに一件しかヒットしない『べぼや橋』ですが、近日中に指数級数的に増加していくことでしょう」と予言し、自分のブログやサイトを持っている人は「べぼや橋」と書き込んで、ヒット数増加に貢献するよう呼びかけている。私がここに書くことで、ヒット数は確実に50パーセント伸びるはずだ。

 しかし、それよりも気になるのは「べぼや橋」自体の存在の是非である。本当にあった橋なのか、それとも岸本さんの妄想なのか、たとえあったにしても、「べぼや橋」ではなく、似た名前の別の橋ではなかったか、あるいは名もない橋で、岸本さんが勝手に命名していただけではないのか、などと想像はふくらむ。

 25〜30年前、世田谷区A堤あたりにお住まいで、何かご記憶の方がいらしたら、ぜひご連絡ください。



毎年恒例の 2005.11.11(金)

 11月に入ったとたん、年賀はがきの販売開始、クリスマス・ケーキやおせち料理の予約受付、デパートの前にはクリスマス・ツリー…と、早くも歳末モード。せわしくもないのにせわしい気分にさせられそうになるが、ちょっと待て。これから私は毎年恒例の個展なのだ。

 ここ数年間、前年1年間に撮影した写真から約30点を選んでプリントし展示している。当初は春に開催していたが、しだいに遅くなり、ついには12月になってしまった。

 だから今度の個展のために、昨年2004年に撮影した写真を全部見直した。ふつうなら今年1年を振り返るところなのだが、私はこの時期に去年1年を振り返ることになる。

 去年の今頃、何を撮っていたかなんてことは、ベタ焼きを見てみないとわからないものだ。撮影したのがつい最近のように思える出来事もあれば、撮ったこと自体を忘れているカットもある。1年という時間をおくことで、被写体に対する撮影当時の思い入れはいくぶん希薄になり、そのぶん写真そのものを客観的に見られるようになる。

 選択の際は、まずは「プリントしたいもの」を基準に選ぶ。自分が大伸ばしにして見てみたいと思うカットが、たぶん他人にとっても面白い写真なのではないかと思うからだ。それに、引き伸ばしたいと思わないものを焼く作業は単なる面倒な肉体労働になってしまう。暗室作業は、どうせやるなら、なるべく楽しくやりたい。

 写真の並べ方は撮影順と決めているので迷わない。ただ、隣り合う写真のつながりが自然になるよう気を配る。そして30点全体を通してみたとき、1冊の絵本のように、見る人それぞれが自分の物語を作れたらいいと思う。物語をあえて廃するやり方ももちろんあるが、私は物語の持つ豊かさが好きだし、物語を連想することで写真自体が記憶に残りやすくなるなら、それもよいと考える。

「私が撮らなかったらだれも目にしないであろうものが存在することを私は信じている」とはダイアン・アーバスの言葉だ。彼女の写真に必ずしも共感するわけではないが、この言葉には共感を覚える。

 私はいままでに一度も見たことがないヴィジョンを見てみたい。だれもが目にしていそうでいながら、だれもはっきりとは覚えていない光景を定着したい。日常のなかには、そうした異世界へワープすることができる瞬間がたしかにある。



スタニスワフ・レムとアンナ・フィヤウコフスカに関する覚え書き
 2005.10.1(土)

 去る7月25日、あこがれの作家、スタニスワフ・レムの自邸を訪ね、レム氏ご本人と1時間余り、1対1でお話しさせていただいた。

 長年の夢がかない、うれしいことはうれしいのだが、過ぎてしまえば夢のようで、あれは本当にあったことなのかしら、という気がする。

 レム・ファンの友人知人からはインタビューを発表しないのかと訊かれる。今回は個人的な訪問で、発表を前提にインタビューしたわけではないから、公表する場合は、まずレム氏にお伺いを立てなければならないだろう。

 ともあれ、私個人の印象は記しておきたいと思った。思ったのだが、私にとってあまりに重たい体験だったので、2か月以上経っても言葉が出てこない。

 こういうとき文学畑の人なら言葉がおのずとあふれ出てくるのだろうと思う。私は普段からあまり言葉で考えないタイプで、外から圧倒的な印象を受けると、受け止めるのに精一杯で、自分の中からは何も出てこない。

 そもそもレム氏と会う約束がそう簡単に取れるとは思っていなかったので、秘書の方からメールで返事が届くとそれだけで舞い上がってしまい、質問も何も用意していかなかった。せっかくのチャンスなのだからあれこれ訊いておいたらよい、とそのときも思ったが、結局直前まであたふたと過ごし、何もせずに当日になった。

 ところで、レム氏に会う2日前に、今年2月に自殺した友人、故ズビシェク・(シャイブス)・フィヤウコフスキのお母さん、アンナ・フィヤウコフスカさんといっしょにお墓参りをした。

 ドイツ占領期、ズビシェクの父親ユゼフさんはAK(アーカー)の闘士として地下活動に携わっていた。1944年、彼ら家族が住んでいたクラクフ近郊ザヴァダ村の共同住宅はゲシュタポに放火され、女子供を含む16人が焼き殺された。中庭にいたゲシュタポ2人をユゼフさんが射殺し、アンナさんは、当時3歳だったズビシェクを抱いて2階のベランダから中庭に飛び降り、裸足で冬の畑を走って逃げたそうだ。

 ユゼフさんは知り合いに呼び出されたまま戻らず、のちに首を切られた惨殺死体となって発見された。その知人はゲシュタポの密告者だったのだ。

 中庭だったところに、いまではユゼフさんおよびナチスに殺された人々の追悼記念碑が立っている。そこにお参りし、花を供えた。放火された共同住宅があった場所では、ちょうど消防団会館の新築工事をしているところだった。

 それから近所の親戚のうちにちょっとだけ寄った。そこのご主人のヤンさんも放火事件の生き残りの1人。燃える家から命からがら逃げ出したときはまだ子供だった。あいにくヤンさんは留守だったが、奥さんのゾーシャさんがお茶を淹れてくれ、一同でアンナさんから戦争直後の話を聞いた。

 戦後はとにかく働いた。勤勉と誠実がなにより大事。前線から兵隊さんが戻ってくる道の端に立ち、1人で酒を売った。当時は酒が高く売れた。酒1本と自転車を交換したことがある。その自転車にいろんなものを乗せて、クラクフまで売りに行った。自転車がなかったときは、荷物かごを背負って10キロ以上の道のりを歩いていった。あるときは酒1本と雌牛を交換した。またあるときは兵隊さんが連れていた(乗っていたのではない)馬と酒を交換したこともある。その馬は近所の農家の人にただであげた。牛も馬もいなくて畑が耕作できずに困っていたから。

 アンナさんは、祖国のために戦った闘士として国から授与された勲章を、社会支援ホームの自室の壁に飾っている。

 その後そこから少し離れたシェプラフの墓地でフィヤウコフスキ家のお墓参りをし、最後に、ひとりだけクラクフのバトヴィツェ墓地に葬られたズビシェクの墓を訪ねた。

 ズビシェクのお墓はバトヴィツェ墓地の中でも最近拡張された北東端の新区画にあった。まだだれも埋まっていないまっさらな四角い区画が規則正しく並んでいて、まるで新興住宅地のようだった。そのうち1区画だけに十字架が林立し、花が供えられている。ズビシェクのお墓にはまだ墓石がなく、盛り土の上に赤いベゴニアがたくさん植えてあった。陽気でお茶目なズビシェクに似合っている。でも人が集まる場所が好きだった彼に、ここはさびしすぎるんじゃないかと思った。

 そんなことがあった2日後にレム邸を訪ねた。行き当たりばったりの訪問者に対して、インタビュー慣れしたレム氏はみずからすすんで話題を提供し、ろくに質問もできないインタビュアーに代わってみずから問いを設定し、かつ答えるということまでやってのけた。

 これまで彼のインタビューやエッセイにはいろいろと目を通していたから、とくに目新しい発見はなく、事実の再確認にとどまったけれども、こちらが何も尋ねなかったのに、ルヴフからの引き揚げ体験の話になったのには改めて衝撃を受けた。

 それまで生活上とくに不自由のなかった若者が、突然、家も持ち物も住んでいた町も友人も、それまでの生活一切を捨て、着の身着のまま見知らぬ町へ逃げなくてはならなかった。その体験がレムに、確実なものなど何一つ無いという諦念を、ペシミズムを植え付けたのではないだろうか。

 91歳のアンナさんと84歳のレム氏に立て続けに会って話を聞き、2人の人生の重みに圧倒され、まだそれを受け止めきれない。そもそも彼らの半分も生きていない私に受け止められるはずもないのかもしれないが。でも来年機会があれば、ぜひまた彼らに会いに行きたい。
 (レム氏から聞いた話の詳細はいずれ改めて)




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