Essay
エッセイ




[ポーランドはおいしい] 第5回

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1. ウオツカとソーセージ
2. ピエロギの考察
番外編. ワールドカップに見るポーランド性
3. 料理名の不思議
4. 蜂
5. ビールの味いろいろ
   ビールの味いろいろ ボグダン・ザヴァツキ

 クラクフの街を歩きながら人々を眺める。かつてとは違う。無数の広告、お店、ブティック、喫茶店、パブ、その他の飲食店も、見るとやはり違っている。ときどき以前を思い出すが、それほど大昔のことではない。いまやそのことは忘れられ、顧みられないけれど、20年前かせめて12年前のドキュメンタリー映画を見さえすれば思い出は蘇る。そう。それは私たちだ。こんなふうだったのだ、灰色で無個性で。お金の隣に食料その他の配給券を入れた財布を持って、何を得るにも(結局何も得られないのだが)あの悪夢のような行列に並んでいたのだ。80年代にポーランド人民共和国で発行されたあらゆる配給券−食料、アルコール、お菓子、たばこ等々−の一揃いを誇る収集家のことを、最近私はラジオ番組で聞いた。そんなコレクションをポーランド国内で持っている人はいないという話だ。ポーランド以外でもいないと思う。配給券が要らなかった場所の一つが飲食店だった。だが、飲食店は現在に比べ、そう多くはなかった。

 今日、私たちはレストランやバー、喫茶店、パブ、居酒屋、ピザ屋、その他新たに増えつつある店で食べたり飲んだりしている。当時もレストランと喫茶店とバーはあったが、ただ公式名称においてそれらは、3からデラックスまでのカテゴリーにしたがって分けられた飲食施設として存在していた。私が覚えている限り、クラクフで唯一のデラックス・カテゴリーの施設が、ホテル『クラコヴィア』のレストランとドリンク・バー付き喫茶室だった。1種を誇ることができたのは『ヴィエジネク』と、あと3つほどレストランがあったかもしれない。中央広場の喫茶店『エウロペイスカ』は間違いなくそうだった。いわゆる普通の店のほとんどは2種を持っていた。一方、3または4種というのは見るからにみじめたらしく、まともな感覚のよそ者はあえて入ろうとはしなかったが、入るとなれば、もうびくびくものだった。そこには、汚れとこぼれたビールでべとべとの厚いガラス板が乗ったテーブルがあった。運営していたのは、怠惰でしばしば粗野な従業員たちだった。そういう店はセルフサービスのバーで椅子席がないこともまれではなかった。だがしかし、目が涙で潤んでくる… いや、悪の巣窟やがさつさ! のためでも、料理と飲み物の種類のせいでもない。値段のせいだ。当時の給料と1ズウォティの価値のことは言わないにしても、飲食店での値段は比較的安かった。ひどいバーの他に、2種のきちんとしたレストランもあり、そこではしかるべき値段でまともな食事をとることができた。

瓶入りジヴィエツ
©1992,2004

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 飲み物、具体的にはビールに関するかぎり、状況はもっと悪かった。ここでその現象の原因を探る時間も場所もないが、ポーランド中の多くの醸造所の活動にもかかわらず、金色の飲み物は酒場でも店でも慢性的に不足していたとだけ言っておこう。当時、私は熱烈なビール好きというほどではなかったが、とくに暑い夏の日など飲みたくなるときもあった。泡立つ1杯を探してクラクフっ子たちが街中を巡礼していたことを覚えている。もしどこかの店にこの貴重品が現れたら、瞬く間に行列ができ、ひとり数本か10数本ずつ、あるいは1ケース2ケースと買ったものだ。こうした国営販売所には、高級な『ジヴィエツ』や『オコチム』は入らなかったし、輸入銘柄品については言うまでもない。あるとき『ユビラト』デパートでチェコ製ビール『ラドスト』を販売したことを思い出す。それはセンセーションとなって多くのグルメをひきつけた。

 明らかなビール不足と平行して、さまざまな小記事がしきりと新聞に書かれていた。『ビール飲み』による非行について、とか、1日中『ビール飲み』らが立ち並ぶビールの売店について、であるとか。あるいはさまざまな文脈において、『ビール飲み』を特徴づける外見と行動の記述が現れた。概してこの言葉には独特のニュアンスがあり、その結果、ビール好きはみな社会にとっての、ろくでなし、怠け者、堕落者ということになっていたから、『まともな女性』が公然とビールを飲むのはまずかったし、そんなことを白状するのもいけなかった。

 さらにこの飲み物の不足と関連した別の現象があった。非常に暑い日のこと、喉が乾いた私は『グランド・ホテル』(2種)に出かけた。ホールの隅に3人の男性がビールを前にして座っているのに気づいた。なんといううれしさ! テーブルに着くと、ウェイターが現れたので、『フラ』(瓶入り『ジヴィエツ』または『オコチム』)を注文した。が、ビールはちょうどいま売り切れたとの答え。なんという失望! ウェイターは私の悲嘆に反応し、身をかがめて囁いた。実際ビールは終わってしまったものの、戸棚の中に自分の持ち帰り用に1本取ってあるので、特例として私を援助してもよいのだが(追加割り増し額を念頭において)。私は喜んで受け入れたから、『持ち帰り用』に隠してあったもう1本も得ることができた。その間、さらに3人の客がやってきたが、この人たちのためのビールもみつかった。今度は「お客様、おわかりでしょう、これは私のではなく、同僚の1箱なので、私が彼に支払わなくてはならなくなるんですよ」という言葉のもとに。こうして彼らはビール一ケースを2倍の値段で飲み尽くした。

 付け加えておかねばならないが、あの当時は出される飲み物の温度があまり重視されていなかった。デラックスか1種では重視されていたのかもしれないが。だから我々が飲んでいたその『フラ』はなまぬるかった。それは当時の樽詰めビールも同じで、冷蔵設備のまったくないビュッフェの上に突き出たありきたりの栓からジョッキに注がれていた。

オコチムのグラス
©1998,2004

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 いまや、とりわけ夏には、冷たい『ジヴィエツ』や『ハイネケン』をおいしく楽しむことができるし、とくに夏は我が国の飲食業の変化が見える。なぜかというと多くの店が庭、つまりパラソルの付いたテーブルを戸外に出すからだ。旧市街にはそれがたくさんある。

 だが過去の話に戻ろう。ビールの出し方で独自の習慣を守っていたのが中央広場のレストラン『ハヴェウカ』(2種)だった。営業時間は8時から23時だったが、金色のアルコール飲料が供されるのは10時から12時と17時から19時の間だけだった。そのかっちりと指定された時間に、そこで何か起きていたかは想像するに難くない。空席はもちろんなかったし、立ち飲みは不可、おそらく知り合いならOKだったのだろうが、ウェイターたちは知り合いに事欠かなかった。ホールは名状しがたい大騒ぎで、煙草の煙が立ち込めていた。12時から17時の間は昼休みだったので、普通に何か食べることはできたけれども、昼食にビールというのは適わぬ夢だった。

 同じくナンセンスなのは、かつてクラクフではビールに必ずつまみの注文が要求された時期があったということだ。飲み屋によってそれはいろいろだった。固ゆで卵半分だったり、文化的に楊子のささっている、パプリカを振りかけた一切れのチーズだったり。そういう卵は(チーズも)テーブルからテーブルへと緑色を帯びつつ数日間回っていたこともあった。なぜかというと、いわゆる『ビール飲み』で ある消費者の大部分は、強制されたつまみに手も触れなかったから、ウェイターはそれを一度引っ込めては、また出していたのだ。かちかちに干からびたチーズでは歯を折ってしまいかねなかった。この汚いやり口を不可能にするため、卵あるいはチーズにわざと煙草を押し付けて消す客もいた。卵の方がひどかったが、私自身、ある酒場のウェイトレスが干からびたチーズについた灰と汚れを洗って、尚もつ まみの振りをさせようとしているのを見たことがある。客に対するつまみの嫌がらせは、ときどき異常なまでになった。例えば、あるとき『ハヴェウカ』でウェイターが私にこう告げた。つまみのうち、あるのはニシンの日本風だけです(ちなみに日本人はこんな料理全然知らない)。私は飲酒癖の克服に関する法に裏付けられた詐欺にあっていたのだ。なにしろこのニシンはビールの2倍の値段だったし、加えて私はニシンが大嫌いときている。とくに日本風のは。

 1989年以前の2、3年間は、アルコール対策法の枠内で、13時前のアルコール飲料の販売と消費を禁じる規則が施行されていた。だが飲食店内でのビールは例外だった。一方、あらゆる種類のアルコールを含む別の禁止事項があった。それは例えばメーデーのような、体制に関連した国の祝日に義務づけられていた。メーデー行進やお祭りのときに普通の飲み屋はともかく即席の屋台でもビールを売っていた、そんな時代があったことも覚えているが、しかし『ビール飲み』にとっては受難の時代がやってきた。政府の気分次第で嫌がらせは様々な形を取った。70年代半ばから始まったそれは、あるいは15時までビール以外のアルコールを出すこと禁止、あるいは15時まであらゆるアルコール飲料を出すことの禁止、あるいはすべてのアルコール類に1日中遮断という具合だった。

 いまの現実にもかつての反響が、ローマ教皇の巡礼中その県内での酒類の販売禁止という形で映し出されている。これは部分的には理解できるが、私個人としては、どこかの『ビール飲み』がどんな状態であれ教皇に危害を与えるとは思わない。この前の教皇の巡礼中、私が中央広場で見掛けたドイツ人旅行者のグループは、ビール1杯飲めないとは何てこったと文句を言っていた。彼らにはどうしても理解できなかったのだ。こういう旅行客はドイツ人だけでなく、きっともっとたくさんいただろうし、我々ポーランド人の恐怖症など彼らの知ったことではないだろう。『ジヴィエツ』がちゃんと飲めて、クラクフに好感を持って帰ってくれた方がよくはなかったろうか?

 かつて『ビール飲み』の迫害が続いていたとき、結局のところそれに手を貸したのが、我が国の飲食店のあまりにもひどい状況とビールの飲み方文化の欠如だった。いまや統計学者が示しているように、アルコール度数の高い飲み物の消費が減少すると同時にビール消費量が増えていることを様々な機関は好感している。もちろんそれにともなって飲み方も変化している。味は? それについては種類と状況に応じてもう千差万別だ。

芝田文乃・訳 ©2000,2003


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