Essay
エッセイ




[ポーランドはおいしい] 第10回

[back number]
1. ウオツカとソーセージ
2. ピエロギの考察
番外編. ワールドカップに見るポーランド性
3. 料理名の不思議
4. 蜂
5. ビールの味いろいろ
6. ポーランドのクリスマス
7. 「ビゴス」と「おじや」
8. 脂っこい木曜日にはポンチキ
9. 桜咲く国
   ポーランド人民共和国における
   外貨両替とその様々な側面
 ボグダン・ザヴァツキ

 戦後ほぼ半世紀の間、外貨の所有と取引はありとあらゆる嫌がらせと結びついていたが、同時にまた特権とも繋がっていた。年とともに規則が変わり、「外貨」所有者の扱いも変わった。 個人同士、あるいは「国内人」と「外国人観光客」間の、ついには「所有者」とPKO[ペカオ]銀行(株)間でのドル、マルク、フランの売買問題に対する政府の態度も変わっていった。

 戦争直後の数年間は、ドルの所有自体、自由剥奪の罰の危険にさらされていた。ドルについてのみ書いているのは、当時、他の外貨がまだゲームに加わっていなかったからだ。「緑の」、「堅いの」と「柔らかいの」という約束事としての定義はその頃できあがった。「堅いの」と呼ばれていたのは20ドルと10ドル硬貨で、「20」は「頭玉」と「自由玉」に分けられていたし、今でもそう分けられている。自由の女神がついているものは誰かの横向き頭がついているものよりつねに幾分高いのだが、理由はよくわからない。重さも純度も同じなのだ。同様に、インディアンの頭がついた「10インディアン玉」は普通の10ドル硬貨よりも高かった。他方「柔らかいの」とはドル紙幣のことで、もちろん流通と使用においては紙幣の方が普及していた。

 1956年の政治的雪解け以降、外貨所有の罪だけで刑務所に入れられることはなくなったが、その売買と非合法の清算は相変わらず厳罰に処された。そのうちに、観光客やいわゆるドル圏からのよそ者が現れるようになり、彼らとともにマルクやフランやポンド、すなわち両替可能外貨がもたらされた。

 60年代にはいわゆる協定の枠内で「人民民主主義」国家と「ドル圏」への専門家の派遣が始まった。もちろん、「人民民主国」への派遣の方がずっと多く、魅力はより少なかったが、つねに希望者がいた。ちょうどその頃、PKO(株)の販売店ができた。そこでは魅力的な外国製品や通常手に入らない国産品を購入することができたが、支払いはドルかPKO のドルクーポンでしなければならなかった。このクーポンは「人民民主国」で働く人々の報酬のために印刷された。彼らが稼いだルーブル、コルナ、フォリント、あるいは東独マルクの60パーセントは強制的に彼らの口座に払い込まれ、そこから詐欺的計算方法でドルに換算されたクーポンを国内で受け取り、PKO の店で買い物をすることができた。

 その後、この店舗網は「国内輸出企業」(!)PEWEX[ペーヴェクス]という名の会社に変わった。そこでは外国車(トヨタも)や国産車、建築建材(国産)、普通は手に入らない「POLISH HAM KRAKUS」、ジーンズなど当時は魅力的だった服、化粧品、国産および外国産のアルコールやタバコを買うことができた。ホテルのそばにもPEWEXの店があり、そこでの品揃えは様々なクリスタルグラス、古銭、宝飾品、パイプ、ライター、その他雑貨でバラエティに富んでいて、そこでは他の両替可能外貨でも支払うことができた。これらの店鋪すべてにおいて唯一続いていたのがズウォティ差別だった。PEWEXでは外貨かクーポンで支払えば誰でも買い物ができ、誰もその出どころを尋ねなかった。マルクやギルダーを商品クーポンに替えたい人が、銀行で何も訊かれなかったのと同様に。

現在、PKO銀行前にある自動両替機
©2002,2004

pix
 70年代の終わりに、PKO(株)銀行に個人が口座「A」を開設する可能性がつくられた。口座「B」と「S」もあったが、話のテーマからしてここでは重要ではない。口座「A」は、そこにいくらかの金額を両替可能外貨で払い込みたいと思えば誰でも開設することができた。共産主義体制はかように是が非でも西側諸国の外貨を必要としていたから、合法的には買うことも売ることもできなかったにもかかわらず、銀行でも店でもその出どころを尋ねなかったのだ。口座「A」に外貨を持つことはいわばその出どころと所有を合法化したのに加え、「ドル圏」諸国へ出るためのパスポート取得を容易にした。

 かくしてドルの闇市場は銀行やPEWEXのそばで隆盛をきわめていた。それで捕まるのはよほどツイてないか、「目星をつけられて」いたに違いなかった。とはいえクーポンの取り引きで一般市民が危険にさらされることはなかった。新聞にさえ「PKOクーポン売ります(買います)」といったタイプの広告が載っていた。それが合法だったのは、警察、失礼、民警にリストアップされた外貨商人、すなわち「ダフ屋」が、そこに加わっていない場合であった。

 ダフ屋は法律によって追われていたが、多少のお目こぼしがあった。ダフ屋は万人に必要だったのだ。そう、国家にとっても。なぜならダフ屋の手を通った外貨の大部分は、結局、国営銀行とPEWEXの金庫に行き着いたのだから。そしてそのPEWEXであこがれの商品を買い、銀行で合法的な口座を開設していた市民にとっても。また一度ならずダフ屋を恐喝して情報提供者にしていた民警にとっても。さらにダフ屋はしばしば国庫に「交通妨害」(銀行前での商売と読まれたし)の罰金を、甚だしい場合には刑罰財政局の罰金を支払っていた。とはいえこの甚だしい場合というのはめったになく、現行犯で捕まるか、西側の外貨か、あるいはさらに悪いことに、大量の「人民民主国」通貨でなければならなかった。

 そう、こうした商品も大いに人気があった。とりわけ友好社会主義諸国への「商売ツアー」が流行した時代には。当時は実質的に望めば誰でも(密輸でリストアップされていなければ誰でも、と読まれたし)身分証明書にそれら友好諸国への旅行の権利を与える判子がもらえた。同時に外貨通帳を持たねばならず、それに従って、1年間に厳密に定められた限度の「人民民主国」の通貨しか入手することができなかった。むろんそれは行商民の必要に比べて微々たる額であったから、ダフ屋には多くの東側通貨の買い手が感謝していた。

 で、ダフ屋はその通貨をどこから手に入れていたのか? 当時我々社会主義諸国の兄弟たちも大勢他の「人民民主国」を旅行しており(おもに観光バスツアー)、申告額以上に持ってきた自国の余分なお金と喜んで手を切ったのである。彼らもまた我々のところで商売の買い物をした。銀行には行く甲斐がなかった。ほんのわずかしか払ってくれないうえ、「東側」には嫌な顔をした。それに大きな金額は怪しまれたし禁じられていた。

 西側旅行者にとって事態は違ったはずだ。こうした囚人は、我々の国での滞在日数に応じて規定された額のドルを、銀行の1ドル=24ズウォティという犯罪的なレートでズウォティに両替する義務があった。闇市場では1ドル120-130ズウォティの価値があったのにである。この義務的金額の他に、銀行窓口で任意の金額のドルを1ドル72ズウォティで替えることができた。

 これは、騙されてやろうと決意したポーランド人が受け取るのと同じ額である。とはいえ外国の建設現場と契約したポーランド人労働者があちらで稼いだドルは、こうしたレートで計算されていた。それに加えて彼らは、仕事に対する報酬の歩合を決める段階ですでにピンはねされていた。当時イラクで働いた人々の話から私はこのことを知った。そこでは大きな建設現場の下請け作業班がヨーロッパ数か国から雇われていた。例えばフランス人が月に1500-1800ドル稼いでいたのに、ポーランド人は同じ仕事をしても400-500ドルしかもらっていなかった。その60パーセントから80パーセントはPKO(株)銀行の口座に払い込まれ、残りはその場で自分の生活のためにイラクのディナールで受け取った。忘れるところだったが、彼らの給料から約100ドルが食事代(食堂)として差し引かれていた。にもかかわらず、こうした契約仕事の賃金は(「人民民主国」でも)国内の給料より、闇市場のドル相場を考慮すれば、数倍は高かったから、人々はコネや袖の下など手段を選ばず、こうした仕事を争って求めた。ここで理解のために挙げておかねばならないが、労働者の平均賃金は例えば1976年において3000から5000ズウォティの間を揺れ動いており、闇市場で1ドルは約130ズウォティだった。

 したがってあらゆる毛色の旅行客も、ダフ屋がつけた値を国営銀行の公式レートより上に置く同国人も、喜んでダフ屋のところにやってきたのはもっともなことである。でも非合法だって? 仕方がない、必要悪だ。ダフ屋の顧客にはまた、みずからの身体の魅力をもっぱら両替可能外貨によって査定していた娘たちもいた。こうした「外貨の」売春婦はおもにホテル「クラコヴィア」で執務していたが、それが決まりというわけでもなかった。西側諸国の外貨との接触を持つ他の人々と同様に、彼女たちは稼ぎのすべてを持ってきたわけではない。貯えはドルで、というのが確固とした原則だったし、そもそも緑色の紙切れをさらさらさせられる人間は、自分がその他の「落ちぶれ貴族」よりも上等だと感じていたのだ。

 クラクフの中央広場の銀行前には、様々な外貨以外に金貨や宝飾品なども換金するため持ってこられた。これもまたこっそり済ませなければならなかった。なぜなら国家がみずから定めた値段で貴金属と宝石を売買する独占権を持っていたからである。

 これら大小のあらゆる商売は共産主義の崩壊とともに少しずつ終末を迎えた。1989年以降、外貨両替とあらゆる形の金の買い付けを行う私設窓口が雨後の茸のように出現しはじめ、銀行とPEWEX前のダフ屋は存在理由を失った。PEWEXももちろん夢のごとく消え去った。ダフ屋のうちしかるべき金額を貯え、そうする意欲のあった者は合法的に両替所を開設し、法に追われていた商売人は税金を払う敬うべきビジネスマンに変わった。外貨のお嬢さんたちは? 相変わらず「クラコヴィア」に居座っているが、すでに新たな世代になっていて、それほど外貨を必要としているわけでもない。ズウォティでもいいのだ。これもいまやいいお金なのである。

クラクフ 6.02.2000

芝田文乃・訳 ©2000,2004


△このページのトップへ
to the top of this page

| Topics | Recent Days | B's Diary | A's Gallery | B's Gallery | Exhibitions | Books & Goods | Profile | Links |

©2004 SHIBATA Ayano & Bogdan Zawadzki | all rights reserved. link free.